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▶切腹とは、滝善三郎正信の場合

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 ★写真は七曲神社境内にある滝善三郎義烈碑 (タキゼンザブロウギレツヒ)
 ※義烈とは正義を守る心が強く激しいこと。 

 

本件は、神戸事件(慶応四年)についての内容です。

 

滝善三郎とは備前岡山藩士でした。
時は慶応四年、正月の3日に明治新政府備前藩に兵庫開港に際して
警備を命じました。

 

備前藩では1月5日までに2,000人の兵を出撃させ、
このうち家老・日置帯刀(へきたてわき)率いる500人は大砲を伴って
陸路を進みました。

 

1月11日(2月4日)13時過ぎ、
備前藩兵の隊列が神戸三宮神社近くに差しかかった時、
付近の建物から出てきたフランス人水兵2人が列を横切ろうとしました。

これは日本側から見ると武家諸法度に定められた「供割」(ともわり)と
呼ばれる非常に無礼な行為であり、
これを見た第3砲兵隊長・滝善三郎正信が槍を持って制止に入った。
しかし、言葉がまったく通じず、強引に隊列を横切ろうとする水兵に対し、
滝が槍で突きかかり軽傷を負わせてしまいました。

 

いったん退いた水兵ではあったが数人が拳銃を取り出し、
それを見た滝が「鉄砲、鉄砲」と叫んだのを発砲命令と受け取った藩兵が発砲、
銃撃戦に発展した。

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事件後、新政府は各国政府の強要に屈服し、日置家老は謹慎、滝は切腹となった。
2月9日 永福寺にて薩長宇和島藩、諸外国は英、仏、米、蘭の立会いのもとに・・・・

 

以下、外国人側からの視点で捉えた内容となります。

 

「旧日本物語」:ミットフォード
我々は日本の検視役に先導されて寺院の本堂へと着いた。
ここで切腹の儀式が行われることになっているのである。
その儀式はまことに堂々として、生涯忘れ得ぬ光景であった。

 

正面の一段高く置かれた仏壇の前には三、四寸高くなった座が設けられている。
日本の検視役の切腹の座に向かって右に、七人の外国人検視役は左側に着席した。
そのほかには誰も居合わせる者はいなかった。

 

心落ち着かないときが経ち、やがてたくましい三十二歳の滝が情々と本堂に現れた。
彼は介錯人と三人の役人を従えていた。
介錯の役目は立派な身分のある者が行うが滝の弟子の一人で剣の達人でもあった。

 

二人は検視役に向かって丁寧にお辞儀をすると我々にも同様な挨拶をした。
彼は切腹の高座にあがり仏壇に二度礼拝をしてから背をむけ正座した。
役人が白紙で包まれた脇差を渡す。
長さは九寸五分、刃はカミソリのように鋭い。

 

再度、丁重なお辞儀をしたあとに次のような口上を述べた。
「拙者はただ一人、外国人に対して発砲の命を下し、それを逃れんとするのを
見て再び発砲し候。
拙者この罪を負いて切腹致す。検視の方、お役目ご苦労に存じおり候」

 

善三郎は裃を帯あたりまで脱ぎ下げ、上半身を露にした。
そしてその袖を注意深くヒザの下へ入れて後ろへ倒れないようにした。
武士は切腹のあとに前に倒れて死ぬものとされていたからである。

 

善三郎しっかりとした手つきで、前におかれた短刀を取り上げると、
いとおしいかのように眺めしばらくの間、考えを集中しているように見えた。

 

そして善三郎はその短刀で左の腹下を深く突き刺し、
次いでゆっくりと右側へ引き、そこで刃の向きをかえてやや上方へ切り上げた。

 

このすざましい苦痛に満ちた動作を行う間、彼は顔の筋ひとつも動かさなかった。
短刀を引き抜いた善三郎は前方に体を傾け、首を差し出した。
そのとき、初めて苦痛の表情が彼の顔を横切った。だが声はなかった。

 

その瞬間、それまで善三郎そのそばにうずくまって、
事の次第をもらさず見つめていた介錯が立ち上がり、一瞬、空中で剣を構えた。

 

一閃、重々しくあたりの空気を引き裂くような音、どうとばかりに倒れる物体。
太刀の一撃で、たちまち胴体は切り離れた。

 

堂内寂として声なく、ただわれわれの目前にあるもはや生命を失った肉塊から、
どくどくと流れ出る血潮の恐ろしげな音が聞こえるだけであった。

 

介錯は低く一礼し、
あらかじめ用意された白紙で刀をぬぐい、切腹の座から引き下がった。
血に塗られた短刀は証拠として、おごそかに持ち去られた。

 

政府の検視役の二人は席を立ち、
外国人検視役のところへ近づき滝善三郎の処分が滞りなく遂行されたことを
申し述べた。
儀式は終わり、我々は寺を後にした。


神戸事件は大政奉還を経て明治新政府政権となって初めての外交事件であり、
結果として諸国列強に押し切られる形で滝善三郎という1人の命を代償として
問題を解決する形になりました。

 

事件直後、神戸に領事館を持つ列強国艦船が陸戦隊を上陸させて居留地防衛の
名目をもって神戸中心部を軍事統制下に置いてしまいます。

この問題の行方によっては薩英戦争同様の事態に進展する可能性もあり、
さらに神戸が香港や上海の様に理不尽な占領下に置かれる事態も
起こり得たことから、滝善三郎の犠牲によって危機回避がなされたことは
日本史の流れにおいても重大な出来事でした。

 

切腹については「武士道」よりの抜粋内容を改定して掲載してす。
 
 
 
 
 
 
 
 
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