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▶川越「時の鐘」

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昔の川越市付近は遠浅の海だったらしいですが
その町に今います。
てゆうか弄ばれていると表現したほうが正解かも…

 

この人手の多さ!日曜日と行楽日和が重なり人、人、人の長蛇の列
いったい皆どこへ一糸乱れず進んでいるのだろうか

 

その前にちょっとだけ川越の歴史を振り返ってみましょう。
奈良や平安時代に荘園が作られ河越・仙波などの武蔵武士が支配する時代
この時代は三芳野の里と呼ばれ伊勢物語でも詠われているようです。

 

川越の由来ともいわれている河越氏は鎌倉幕府御家人として
有力で河越太郎重頼の娘は源義経の正妻とまでなります。
静御前は恋人?写真は義経像(中尊寺所蔵)
 

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しかしながら源頼朝義経のケンカによりご存知の結末を迎えました。
その後河越一族は再び盛り返しますが、その後に滅亡します。

 

後の上杉持朝は川越一帯を治め家臣の大田道真・道灌の父子に川越城を築かせます。
初雁城とも呼ばれた美しい城はその後小田原氏・北条氏の支配下
おかれますが北条氏は豊臣秀吉によって滅ぼされました。

 

やがて徳川家康の支配になると川越藩が置かれます。
江戸幕府は川越を江戸の北の守りとして
重要視し、有力な大名を配置したのです。

 

また大名のひとり松平信綱は城下町を整備し
舟運で江戸との物流を活発にさせます。
 
この舟運は新河岸川から墨田川へと伸び
浅草に物資を運んだあと、帰りの便では川越に江戸の最新の文化を持ち帰ります。
こうして商人の町としての川越は小江戸と呼ばれ幕末までにぎわいました。

 

明治になっても川越は商業都市として繁栄しつづけます。
穀物流通の中継地として、タンスや織物の生産地として発展しました。川越唐桟(とうざん)織は粋な織物として江戸で人気になりました。この生地って旅館で見かけませんか?
 

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また川越は結構、火事に遭ったりもしています。
明治26年(1893)の大火では町の3分の1が燃えましたが
川越商人は燃えなかった蔵の耐久性に着目したのです。
 
今も残る蔵づくりの町並みはその時、財力を投資してつくられた
土蔵造りの店舗の名残りです。
壁が黒いのは火事の跡ではなかったようです。

 

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大正11年に埼玉県ではじめて市制を施工し
現在川越は首都圏近郊の中核都市として発展しています。
 

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「時の鐘」は 高さおよそ16m、木造三階建ての塔の上に
 時刻を知らせる鐘を取り付けたこの建物となってます。
最初に建てられたのは
喜多院江戸城の建物が移されたのと同じ頃、寛永年間です。

 

江戸の街で、鐘を鳴らして時を告げていたのに習い
時の川越城主、酒井忠勝が自らの領地に建設したものです。
 
現在の塔は明治時代に再建されたものですが
 江戸情緒を今によく伝えており川越の町が「小江戸」と呼ばれるのも
ここへんに理由がありそうです
 

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さらに川越には「菓子屋横丁」なるものが存在します。
その名のとおり、駄菓子屋さんが集中しているのですが
その人通りはすごい!ものがあります。
 
とにかく歩けない進めない
このような狭い一角に人が集中しているのでびっくりです。
 

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特にお目当てのものも無かったのですが
町興しにはいいアイディアではないのかなと思いました。
最初に考えた人は誰なんでしょう?

 

週末はとにかく人通りが激しく
また一般車も多く走っているので注意が必要です。

駐車場も大きめのところが無く(市役所も解放しているが常に満車状態)
こまめに探さなければなりません。
 
今回紹介していない喜多院などがありますので
駅前などで配っている観光MAPを最初に手に入れると
スムーズに運ぶかもしれません
 

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ちなみに亀屋の「いもシュー」は人気があり絶品です。
ぜひ川越に行かれたらご堪能されることをオススメします。
 
ただ生ものなので日持ちがしませんのでご承知おきください。
 
それでは
 
 
 
 
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