😅ゴローの人生楽しんだ方がいいね!

日々の生活を中心に、たまに自然を愛でながらのキャンプライフ

▶東京駅の暗部

 
ようやく今年一年の仕事納めとなり、ホッとしているところ
例年の納会では、料理番を担当し、焼きそばのフライパンの重たいこと!
 
無事、大役を果たし?ふらふら状態で帰路に着いたのですが、
不思議なことに乗り換えの度に、前の席が空いて座って帰れました。
 
こんなこともあるんですね!
老体+酔っ払いには、一日遅れのクリスマスプレゼントだったようです。

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さて前回、浜口首相編をご紹介しましたが実は、
もうひとり首相が東京駅で亡くなりなってます。
 
それが平民宰相ともいわれた「原敬」です。
「はらたかし、はらけい」とも呼ばれます。たぶん、
写真は昔の歴史の教科書に載っていたと思うのですが、
最近はどうなんでしょうか?

 

     ◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◆

 

第19代内閣総理大臣、生まれは岩手県盛岡藩)。
祖父は、家老職を務めるなど上級武士の家系に生まれた。
新聞記者から外務省、陸奥宗光井上馨との交友もあり、大臣、官僚の経験もある。
その後、立憲政友会に参加。政界に進出し、大正7年(1918年)に内閣総理大臣
就任しましたが、爵位の受け取りを固辞し続けたため
「平民宰相」と言われています。

 

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犯行現場は東京駅丸の内南口になります。
ちょうど発券機の前におじさんが立っていますが、
右足のつま先が向いている方向の床が一部色が違うところがあります。
 
そこが原が襲われたところになります。
犯人は手前の柱の影から出てきました。

 

写真が小さくて見難いのでもう少し近づいてみましょう。

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1921年11月4日、京都で開かれる立憲政友会京都支部大会へ向かうために
東京駅乗車口の改札口へと向かっていた原は、
午後7時25分頃、突進してきた犯人の中野艮一に短刀を右胸に突き刺された。

 

原はその場に倒れ、駅長室に運ばれ手当てを受けたが、既に死亡していた。
突き刺された傷は原の右肺から心臓に達しており、
ほぼ即死状態であったという。

 

逮捕された中野艮一は、死刑の求刑に対して、
東京地裁無期懲役の判決を受けた。こちらも浜口首相と同じです。
 
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なおこの裁判は異例の速さであり、
調書等もほとんど残されていないなど「謎」が多い裁判として有名、
その後の中野艮一は3度もの大赦で1934年には早くも釈放されました。

なお戦時中には軍司令部付の兵となっていたなどと
本事件に関する政治的背景の存在を推測する論者も多いという。

 

動機としては諸説あるが、犯行の一ヶ月前、中野艮一と上司・橋本との
政治談義の中で原政治の批判になり、
橋本が「今の日本には武士道精神が失われた。(政治家は悪いことをした時に、
責任を取るという意味で)腹を切ると言うが、
実際に腹を切った例はない」というような主旨のことを言ったのに対し、
中野艮一が「腹」と「原」を誤解し、
「私が原を斬ってみせます」と言明したという。
 
このため、橋本のその言葉が事件の直接的なきっかけとなったとして、
橋本も殺人教唆の疑いで逮捕されたが、判決は無罪であった。
 
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一方、浜口首相の犯人、佐郷屋は「濱口は社会を不安におとしめ、
陛下の統帥権を犯した。
だからやった。何が悪い」と言い、背後の右翼団体は隠しての犯行であった。
もっとも、「統帥権干犯とは何か」という質問には答えられなかったという。

 

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因みに、御二人(浜口首相)とも11月の4の付く日に事件に遭っているので
11月に東京駅に行かれる方は注意喚起が必要かと思われます。

 

原敬の秘書の菊地梧郎氏は、この時の様子を次のように記録しています。
11月4日の東京駅頭の凶変には、自分はその場に居った。
原さんのお供をして京都まで行く積りであったのである。
凶漢の凶行は間髪を容れざる瞬間の出来事であったので
、側にいた我々の眼にもとまらなかった。
 
ただ、高橋駅長の先導により改札口に向かって歩を運びつつあった原さんが、
急に立ち止まって動かなくなった。
そうして、そのまま後ろの方へ倒れ掛かるようになったので、
オヤどうしたのだろう、目まいでもされたか、脳震とうでも起されたかと、
原さんの後ろに続いた中橋文相、元田蔵相、小川国勢院総裁、高橋書記官長等
にて抱きかかえ駅長室へ運んだ。
 
血が一滴出た訳でもなし、
凶漢に刺されたものということはそのときまで分らなかったが、
身体を検し、胸部に刺された致命傷のあるので、万事休することを知ったのである。

 

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首相が暗殺され、何れも最後には釈放、現在では到底考えられませんが
軍とのパワーバランスでしょうか。
それだけ当時は軍が力(影響力)を持っていたのですかね。 
 
 
 
 
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