😅ゴローの人生楽しんだ方がいいね!

日々の生活を中心に、たまに自然を愛でながらのキャンプライフ

▶昭和のスパイ事件


外は快晴、社内では週末はスキーとのハナシもちらほら、そういえば昔スキーをやってたことをふと思い出しました。

山頂でいざ滑降だと思いきやなぜか足元が変です。ブーツの片方が妙に軽いではないか?こりゃついに上手くなったのか・・そのときです、足元に目をやるとなんと!ブーツが真ん中からパックリと口を開けていたのです。

バラバラではなかったので、なんとか下まで降りることができ事なきを得ましたが、友人らに聞くとめずらしいことではないとのこと。

しばらく使ってなかったり、古かったりすると最中にパックリ現象となるようです。

テレビで関越のどこかで25kmの渋滞とのテロップが流れてました。
きっと彼女たちは到着直前になってイライラしてるのかも知れません。あとは月曜日にこの不満が爆発しないよう祈るだけです(笑)


さて前置きが長くなりましたが、今回は「ゾルゲ事件」について報告します。

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1941年(昭和16年)大東亜戦争が始まった年ですが、この年の秋にスパイ団とその協力者二十人ほどが逮捕されました。

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その中心人物が写真上のリヒャルト・ゾルゲで日本人の尾崎秀美(ほつみ)とともに死刑となりました(写真下)。

ゾルゲはドイツの新聞記者として1933年(昭和8年)に来日、ドイツ大使館に出入りしたりして大使館員の信頼を得ることができました。
そして通常の取材では入手できない情報まで手に入れることができるようになったのです。
もうお気づきかと思いますがこの男こそがコミンテルン(国際共産党組織)でソ連のために働くスパイだったのです。
一方ゾルゲに協力した尾崎(共産主義者)は新聞記者出身で近衛文麿(首相)の側近で非常に仲が良かったといいます。近衛首相は日中戦争を長引かせて日本が連合国と戦わざるをえなくなる重要な決定をしたことでも有名。

ゾルゲと尾崎は考えは「ソ連を日本軍の攻撃から守る」ことでした。
ソ連コミンテルンのバックであり、共産主義の闇奉行的な存在でした。
残念ながら学校の教科書にもこのことは載ってませんし、ゾルゲ事件の重大さを知る人もそう多くありません。

ここで一般にあまり知られていないエピソードを三点ほど紹介します。

1)ノモンハン事件
ノモンハン事件とは1939年(昭和14年)に日本軍が支配する満州ソ連軍の国境をめぐる大規模な戦闘のことでこのときゾルゲは日本軍の攻撃拠点を知り、これをソ連軍に伝えていたのです。そのため日本軍はソ連軍の大戦車部隊によって大敗を喫してしまうことになります。
ここからが重要です。この頃日本では、北に攻め入りソ連を打つか、南の欧米の殖民地を手に入れるか二つの話がありました。
ノモンハンの大敗の結果、ソ連侮りがたしで軍内部におけるソ連攻撃は消極的になったのです。

2)ゾルゲ南への進撃をアドバイス
ゾルゲは尾崎を介してソ連を攻撃してもシベリアには何もない、南に行けば資源が沢山ある!と進言。
近衛首相は南に行けば米英とぶつかるが日本、ドイツ、ソ連がまとまれば対抗できる判断したのでした。
ところが皆さんご存知のようにドイツはソ連を攻撃してしまいました。
ここで日本北へ向かえばソ連を挟み撃ちにすることができます。しかし近衛首相は南へと決定したのでした。ゾルゲと尾崎の作戦が勝った瞬間でした。

その後ゾルゲからソ連に「日本は南に」との朗報が伝えられました。これでソ連は対独戦に専念できたわけです。もしものハナシですが北の政策を取ればソ連はどうなっていたのでしょうか・・・大戦末期の日ソ不可侵条約を破棄して攻め込んでくることもなかったように思います。

3)ゾルゲ死刑になる
逮捕されたゾルゲが取り調べに対し自白したのはスパイ交換によって本国に帰れると思っていたからです。(当時ソ連は日本にとって中立国)ところがスターリンゾルゲからのドイツ侵攻を前もって知っていたにもかかわらずこの時点で大失策をおかしてました。これがばれると非常に困ります。ゾルゲに関する日本からの問い合わせに対しソ連ゾルゲを見捨ててスパイ交換を拒否しました。
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モスクワ ゾルゲ通りに立つゾルゲ像 自国では英雄なんですね。




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