😅ゴローの人生楽しんだ方がいいね!

日々の生活を中心に、たまに自然を愛でながらのキャンプライフ

海を渡った新兵器

 
今回は先の大戦で陸軍が使用した
風船爆弾」について取り上げてみます。

 

随分昔の話ですが、この事実を知ったのは
三十数年前,本屋の立ち読みでした。
たぶん「風船爆弾」とかの題名が目に留まりページを
開いたのではと思います。

イメージ 1

その奇想天外な内容にも驚かされたのですが
数ページ目にあったモノクロ写真で、
戦果があったと気づいたのもそのときです。

 

日本軍は、日本の上空に吹くジェット気流を利用して、
約9,000キロ離れたアメリカ本土まで、気球を使って爆弾を落とすことを計画。

 

全国の和紙の生産者が総動員され、約9,000個の気球が打ち上げられ、
そのうち約1,000個がアメリカ本土まで到着したと推定。

イメージ 2

本体は直径10メートル、和紙を貼り合わせたもので下部に爆弾、
焼夷弾を吊るし約50時間程度でアメリカまで到達したといいます。

内部には水素を充填し、高度維持装置を備えておりました。
水素は時間とともに抜け気球の高度が下がることから
爆弾とともに吊るしていたバラスト(砂袋)を落下させ高度を維持しました。
(後述の映像で確認ができます)
なおアメリカ軍はこのバラスト砂から製造地及び発射地点を割り出して
空襲の目標としていた。
放球は茨城県福島県の海岸線付近で、
残念ながら当時の痕跡は少ないようです。


さてこの歳になり、
改めて調べてみると戦果意外にいろんなエピソードがあることが分かりました。


日本へ投下される原爆の製造を3日間遅らせた。
プルトニウム製造工場(ハンフォード工場、ワシントン州リッチランド)の
送電線に引っかかり短い停電を引き起こした。
これが原爆の製造を3日間遅らせたという説が伝えられているが、
実際には工場は予備電源で運転されており、
原爆の完成にはほとんど影響はなかったという。

 

作業にあたって動員された女子学生の指紋が消えた。
製紙工場では、こんにゃくのりで和紙を重ね合わせ、気球の原紙を作った。
乾燥工程で塗った漆が少女たちを悩ませた。ほとんどがかぶれたが、
それでも「勝つまでは頑張ろう」と働いた。

気球の組み立てでは、原紙をぴたりと張り合わせようと、
力を込めて指で何度もなぞるため、指先の指紋がほとんど消えたほどであった。
さらに気密性を保つために水酸化ナトリウムが用いられため指紋が消えたともいう。

 

当時おでんのネタからこんにゃくが消えた。
こんにゃくは気球の球皮となる和紙を張り合わせる糊(のり)として使われた。
この糊は軽い上に気密性が高く、粘度が強い。

飛んできた風船爆弾を分析した米軍は、
使用された接着剤の正体を最後まで突き止めることができなかった。

一方、群馬県下仁田町の農業、市山夏司さん(82)は
「おらが町のこんにゃくが、本当に空を飛んだのか~っ」。(一部創作!)

その事実を終戦後に知った時、強い驚きを覚えたという。
風船爆弾の存在は当時の軍事機密であり多くの町民が、
こんにゃくが爆弾の一部となってアメリカを攻撃するとは知らなかった。

 

ジェット気流は日本人が発見。
茨城県つくば市に設立された高層気象台初代台長の大石和三郎が
大正15年に「日本上空の高層風として、特にジェット気流」の発見に
ついての論文をエスペラント語で発表」。
 
高度1万メートル前後の上空の偏西風(中緯度地方の上空を取り巻いて
1年じゅう西から東に吹く風速100メートルの風。
南北両半球にあり、上空ほど速度を増し、圏界面付近では、
その中に幅が狭く風速の特に大きいジェット流が形成されることから
ジェット気流」ともいわれる。

外国では日本の観測ミスでは?と存在が疑われていたが,
高度1万mを飛行できるB-29が日本本土爆撃の時にこの気流による
大きな飛行障害が発生したことで,一般に存在が証明された。

 

ブライの悲劇慰霊碑(アメリカ本土唯一の被害者)
昭和二十年五月五日午後一時すぎ、米オレゴン州の山あいの村ブライの電話局で
交換手をしていたコーラ・コナーが受けた事故の一報であり、
すぐ一帯を管轄する軍に通報した。

この日は日曜。
礼拝後、ミッチェル牧師夫妻は日曜学校の十歳~十四歳の少年少女ら五人を
車に乗せて、ギャハート山へピクニックに出掛けた。
残雪のなか車を降りた子どもらが吹きだまりの松の木に引っ掛かっている
奇妙な物を見つけた。

子どもらと身重のエルシー夫人が取り巻き子どもの一人が手を伸ばした瞬間、
大きな爆発音がとどろいた。

 

細菌兵器として
当時、爆弾意外に細菌をばら撒くという案も浮上したようですが
昭和天皇が反対され実施にはいたりませんでした。

 

風船爆弾の実際の映像はこちらから
http://jp.youtube.com/watch?v=MSHrAk3Jb28

 

風船爆弾の模型は国内に結構、
あるようですが江戸東京博物館にも1/5の模型があります。

イメージ 3

まさに奇想天外という言葉がぴったしかも知れませんが当時の
日本人はなんて頭が柔らかったのでしょうか。

考えようでは人類初の大陸間弾道弾とも言えるのでは。
とても風船という表現は似合わないような気が。

 

当時ドイツにもV2ロケットがありましたが
こちらドイツからロンドンですから距離は比較になりません。

 

さてこの風船爆弾ですが陸軍の「登戸研究所」でいろいろとのハナシが
ありますが,また長くなりますのでここで一旦打ち切らさせてもらいます。

 

ところで「風船おじさん」なる者が数年前世間を騒がしておりましたが、
その後どうなったのでしょうか?
マスコミは沈黙しているし,ニュースでもその後は一切なし?
実はおじさんも「風船爆弾」のことをちゃっかり知っていたのではないでしょうか?

 

単なるパフォーマンスじゃなくて風船に乗ってアメリカへ到達し,
なんらかのメッセージを人類に伝えようとしたのではないだろうか・・・
 
 
 
 
,