PC復活後の第一話は、ごらんのタイトルにしました。
しばらくお休みしていた近代史を探るから今回は、
真珠湾攻撃に参加した「特殊潜航艇」を追ってみます。
真珠湾攻撃には、この特殊潜航艇が加わっています。
(江田島自衛隊幹部学校中庭にて)
全長24メートル、二人乗り、二発の魚雷を装備
この特殊潜航艇は、真珠湾入り口から10kmから20kmに迫った
親潜水艦から発進し、当時五隻が参加しています。
乗組員10人のうち九人は戦死しましたが、
一名は捕虜の第一号となったため残りの九人が軍神として讃えられました。
特殊潜航艇の生まれですが、
艦隊決戦用として考案され1922年(大正十一)と1930年(昭和五)の
国際軍縮条約で大型艦のトン数が制限されたことに対する、
海軍の危機感と焦りが生んだものとも言われています。
すわ日米開戦か?という状況のなかで、
開戦直後に特殊潜航艇を単独で真珠湾に潜入させる作戦が再三提案されましたが、
当時の山本長官は生還の見込みなき作戦は不可として、却下を続けました。
提案した潜水艦部隊は、
まだそのときに真珠湾奇襲計画があることも知らなかったのです。
しかし潜水艦部隊はあきらめずに提案を続けた結果、
ついに山本長官の了承を取り付けたのでした。
ついに山本長官の了承を取り付けたのでした。
まずは航空奇襲攻撃を成功させるため、
飛行機隊の第一攻撃のあとに作戦を開始することになったのです。
飛行機隊の第一攻撃のあとに作戦を開始することになったのです。
実際には湾内に潜入しようとした特殊潜航艇二隻が発見され、
うち一隻は侵入に成功。一隻は午前六時半、駆逐艦により撃沈された。
航空部隊の攻撃が始まる一時間半まえのことでした。
さらにもう一隻が七時二十分(航空奇襲前)に撃沈されました。
うち一隻は侵入に成功。一隻は午前六時半、駆逐艦により撃沈された。
航空部隊の攻撃が始まる一時間半まえのことでした。
さらにもう一隻が七時二十分(航空奇襲前)に撃沈されました。
奇襲攻撃前のこの戦闘で真珠湾全体が戦闘体勢をとらなかったのは、
報告を中継する将校の怠慢やわざと成功させたなどがあるようです。
報告を中継する将校の怠慢やわざと成功させたなどがあるようです。
五隻の特殊潜航艇のうち三隻は引き揚げられ、
うち一隻は現在、戦後アメリカが返還したもので
うち一隻は現在、戦後アメリカが返還したもので
写真下は親潜水艦(伊号)に搭載された特殊潜航艇
捕虜となった酒巻少尉の詳細については以下
ところが方位を知るためのジャイロ・コンパスが故障している
事がわかりましたが、潜望鏡を使って方向を確かめると、
酒巻和夫少尉はイ24潜の艦長に出撃の決心を告げ、稲垣清2等兵曹と共に
翌朝12月7日未明(午前4時頃)母潜を離れ夜明け
を待つこととなりました。
を待つこととなりました。
潜望鏡の偵察で真珠湾外はるかに遠くに居る事がわかり、
湾口に向けて航行しましたが、
湾口に向けて航行しましたが、
発見されてしまいました。
その爆雷攻撃はすざましく横山艇も撃沈されましたが、
酒巻艇は辛くも逃れる事が出来ました。
酒巻艇は辛くも逃れる事が出来ました。
ジャイロコンパスが無いなか、潜望鏡で偵察しながらの航海で目標を見誤り、
真珠湾とは東の反対側のオアフ島ベローズ海岸沖に着きました。
出撃から24時間以上も過ぎて、バッテリーも尽き、海岸に漂着してしまいました
真珠湾とは東の反対側のオアフ島ベローズ海岸沖に着きました。
出撃から24時間以上も過ぎて、バッテリーも尽き、海岸に漂着してしまいました
がそこで自爆炸薬に点火、2人とも夜の海へフンドシ一本で飛び込みました。
酒巻少尉は翌朝、意識不明で海岸に打ち上げられているところを米軍に助けられ、
捕虜となりました。
稲垣兵曹は遺体で収容されました。
その後フォートシャフト基地へ「日本兵捕虜第1号」として収容されました。
翌1942年3月初め、米本土サン・フランシスコのテンゼル基地に抑留日本人
やドイツ人らと共に移送され、1週間後、ウィスコンシン州マッコイ基地へ移動し
一人だけで収容されました。
捕虜となりました。
稲垣兵曹は遺体で収容されました。
翌1942年3月初め、米本土サン・フランシスコのテンゼル基地に抑留日本人
やドイツ人らと共に移送され、1週間後、ウィスコンシン州マッコイ基地へ移動し
一人だけで収容されました。
ここで初めて捕虜の日本兵と出会いました。
そして終戦を迎え、8月14日に日本敗戦を知らされました、
捕虜となってから1134日目の事でした。
捕虜となってから1134日目の事でした。
1945年12月8には日本兵捕虜と共に日本へ向けて送還となり、
浦賀へ到着。
郷里の徳島へ無事に生還することができました。
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