昨日の雨も上がり、今日は快晴となっていますが
強いため老体には辛いものがあります。
ところで大いにもめた定額給付金も配布となり、
当然子供の分もガメって何に使おうか悩みます^^
さて今回は真珠湾攻撃を成功?
させた一人の日本人について紹介します。
森村正、本名吉川猛夫がその人です。
海軍兵学校出身の少尉だったのですが、病気で予備役になったあとに
軍令部嘱託として働いていました。
海軍での最初の勤務が巡洋艦「由良(写真下)」の暗号士だったことから、
情報将校としての訓練は受けていました。
1941年三月で最初の報告を本国へ打電したのが五月十二日でした。
以後、十二月六日までに176通の真珠湾の情報を送り続けました。
そして真珠湾の周囲はおよそ160km。
森村はタクシーを拾って足しげく真珠湾まで通い情報収集にあたりました。
運転手のなかには軍艦の名前や施設に詳しい者もいて、
無邪気に尋ねると得意になって教えてくれたりもしました。
ヌアヌ街をあがったところに春潮楼があり、
その二階からは軍港が一望でき客へのサービス用として望遠鏡もまでもが
備えてありました。
森村が春潮楼に入りびたったのはもちろん、
座敷に呼んだ芸者達を誘ってはピクニックや遊覧飛行へ出かけました。
とうぜんながら空からも真珠湾の偵察ができたのです。
森村が軍令部の要望に応じて「日曜日に最も多くの軍艦が入港している」と
報告したのは十月末でした。
そして十二月六日付けの報告が最後となったのです。
そして十二月六日付けの報告が最後となったのです。
「五日夕刻入港セル空母二隻、重巡十隻は六日午後全部出港セリ、
ソノ他多数。艦隊航空兵力デハ航空偵察を実施シテイナイヨウデアル」
ところで最初の一弾は湾内の軍艦ではなくヒッカム飛行場へ投弾されています。
これはいったいどういうことなんでしょうか。
奇襲とは敵が気づくまえに攻撃すること、
強襲とは直前であれ敵が気づき反撃してきても攻撃することとあります。
予定では奇襲でした。
最初の攻撃隊183機が淵田美津雄中佐に率いられて
真珠湾上空に達したとき敵の戦闘機は現れませんでした。
淵田は奇襲でいけると思い信号弾を外へ向けて一発発射しました。
奇襲の合図でした。成功を確信した淵田は「トラトラトラ・・・」を発信、
「我奇襲ニ成功セリ」である。
奇襲攻撃ではまず戦闘機隊が上空で敵戦闘機の来襲に備えるなか
雷撃隊が攻撃、次いで水平爆撃隊が爆弾を落とします。
水平爆撃とともに急降下爆撃隊と戦闘機隊が飛行場を攻撃する。
強襲では、まず急降下爆撃隊と水平爆撃隊が飛行場を攻撃して、
軍艦の大砲をそこに引き付け、
その間に戦闘機隊に護衛されながら雷撃隊が海面すれすれまで降りて魚雷を放つ。
ところが空母「蒼龍」の戦闘機隊だけが奇襲体制に入りませんでした。
雲で信号弾が見えなかったのです。
それを見た淵田はもう一発、信号弾を発射します。
ところが今度は急降下爆撃隊の隊長が二発だから強襲と判断したのでした。
こうして軍艦ではなく飛行場攻撃となったのです。
ほぼ同時刻にマレー半島に陸軍も上陸しましたが
タイ駐在の陸軍武官も開戦は九日と勘違いし上陸の準備は
まったくしていなかったといいます。