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日々の生活を中心に、たまに自然を愛でながらのキャンプライフ

▶草津温泉物語その①

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写真勝手にアップしとります。皆さんの了解は得てませんので・・・
多分?右から二番目の方ですが偶然町中でお逢いしました。
蛙色のジャケットに黒のパンツスタイルでしたが洋装もステキでした。


昨日は空気がひんやりとし一日中寒かったのですが

今朝は幾分か和らいでいるようです。

この時期、寒い日と温かい日が交互に訪れ春を迎えるのですが

三寒四温とはこのことですかね。

 

ほんとに日本は四季の移り変わりをいとおしみ繊細や情緒があり、
季節ごとの言葉の使われ方や風物詩など素敵なものがたくさんあります。
 
春一番、花冷え、寒の戻り、桜の開花にあわせた花見、千枚田での田植え、
紅葉狩り(日本の葉は外国に比べ薄いので微妙な色合いとなるようです)、
そして雪の合掌造りなど。。。

 

日本人の感性は、
このような大自然の影響も受け長い間に育まれてきたと考えられます。
外国の学者には日本文明を唱える人さえもいます。

 

例えば俳句なども、「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」子規や芭蕉など
いろんな句を詠んでいますが
この句を聞いていろんなことを想像してしまいます。

 

抜けるような秋空のもと、
法隆寺の大伽藍を見ながら茶店で子規が柿を食べていると、
すぐ近くにある堂の鐘楼から時を告げる鐘の音がゴーン、ゴーンと
響き始めました。

鐘の音は、法隆寺の裏山を包み込むと同時に、
繊細なうねりを伴いつつ斑鳩の里にゆっくりと伝わっていくのだった。

 

斑鳩の里の田んぼのなかにポツンとある柿の木に登り、
柿を食べていると法隆寺の鐘が聞こえてきた。

きれいな夕焼けも心細くなってきたし、そろそろ帰る時間だなぁ。
お使いの最中であった五郎少年はさっと枝から飛び降り、家路につくのであった。

 

いつも話題があらぬ方向へと走ってしまいますが
この話の続きは後日書きます。

 

さて、前回「草津温泉18湯共同浴場めぐり」を報告するなどと
息巻いていたのですが先ずは草津の歴史から紹介します。

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草津温泉の歴史はとても古く、日本武尊ヤマトタケル)や行基
源頼朝が開湯したという伝説があります。

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昔の情報の手段がない時代に、
草津温泉は全国に知れ渡っていたと言われていますし
江戸時代になると湯宿が60軒ほどあり、とても栄えていたそうです。

 

18世紀頃には貸し切り湯ができ、後に内湯が設けられるようになりました。
明治時代にドイツ人医師のベルツ博士により、
温泉の魅力や効能などが発見されます。
現在、「草津町」は「ベルツ博士」の故郷「ビューティハイム・ビッシンゲン市」
姉妹都市を結んだのを始め「草津町」と同じ経度に位置する
オーストラリアの「スノーイ・リバー村」雪質や自然が良く似たオーストリア
「ノイシュテフト村」などと姉妹都市を結び世界の
スパリゾート「KUSATSU」として新たな歴史を歩み始めています。
※写真は西の河原にあるベルツ像

 

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草津の地名についてはその由来として二通りの解釈があるようです。

草津町温泉資料館では、
ひとつにはその独特の硫黄成分の強い温泉の臭いから「臭い水」を意味する
「くさうず」が変化して草津になったという説。

ふたつめは大般若経の中の一文、「南方有名是草津湯」より来ているという説。
いずれが正しいのかは不明ですが、北国としては「臭い水」説を推します。
実際に町中を散策したり湯畑などを見てみるとなるほど~という気分がします。
ニンゲンは温泉が好きなんじゃなぁ:我輩はクサツネコである

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草津温泉を訪れる人は著名人だけを抜粋してもものすごい数に上ります。
現在でも「将軍おくみ上げの湯」として
その名残が湯畑に残る将軍八代吉宗公、小林一茶東海道中膝栗毛十返舎一九
この十返舎一九が実は草津を題材に「上州草津温泉道中続膝栗毛十編」を
書いています。

 

また、現在約2ヶ月に一度の割合で採取されている
湯畑の湯ノ花が実17世紀後半の頃より続けられていると言う話もあります。
湯ノ花一つをとっても実に歴史の長さを感じさせる草津ですね。

 

時が移り国が変わった明治になると時間湯という入浴法が確立され、
有名な湯もみが始まります。
 
草津温泉の湯もみをさらに有名にしたきっかけと言われる平井晩村が
草津に来たのは1918年、大正7年と記録に残っています。

 

平井はその紀行を表した「湯けむり」を発表し、
かつ草津節の原型とも言われている詩を書き残しこれが現在の草津節となり、
湯もみをする際の添え歌として温泉地草津のイメージを全国に広く知らしめた
(資料館のガイドより)
すごい人ばかりです。
湯畑を囲む石柱を注意して見ると草津を訪れた著名人の名前が一本一本の柱に
彫ってあるのがわかります。

 

湯畑から少し下がるとタイムスリップした感のある場所にでます。
右手の松村屋の看板をご覧ください!なんともステキな文字が見えます。

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写真正面の突き当たりに鷲の湯跡があります(草津節発祥の地)、
そしてその奥に立つ旅館が古久長旅館になります
写真下が当時の鷲の湯とその後ろが古久長旅館です。

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古久長旅館秘話:昭和20年8月15日は、日本がポツダム宣言を受諾した日ですが
日本は連合軍に降伏し、新たな歴史が始まりました。

当時GHQ(連合国軍総指令部)は、
木造3階建て以上の建築物をすべて解体せよというとんでもない指令を出して
いました。つ
まり、日本の文化財級の建物はすべて取り壊せというものです。

これには、政府は反対しました。
いくら日本が戦争で敗れたとはいえ、長い歴史のある建造物まで解体するのでは、
将来も被占領国としての国辱にまみれるという事になりかねません。

 

鳩山 一郎元首相らが、体を張ってGHQ指令から守った事は、
歴史上有名な話ですが、当古久長旅館は,明治二年(1869年)に発生した
草津町の大火後の再建の木造3階建ての建物であったのです。

こうした建物は、現在では指で数えるほどしかないのです。
また江戸幕末の頃、松代藩に依頼されて、
硫黄から火薬を取り出す技術指導に佐久間象山が古久長旅館を常宿に
していました。(HPより抜粋)

 

いゃ~歴史ってほんとに面白いですよね!知ってから散策するのでは
まったく別の見方ができると思います。
そんなわけで今回も共同浴場めぐりがアップできませんでした。

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ところで正式名称はあるのでしょうが「饅頭攻撃通り」なるものがあります。
湯畑から西の河原方面へ抜ける道ですが
道の真ん中でおじさんが饅頭を食べろと「シツコク」迫ります。
 
さらにはお茶を持ったばあさんまでもが攻撃してくるのです。
一度つかまると湯のみを持っているので店の中に返却しに行かなければなりません
ご当地ならではの戦略ですかね。

当然ながら無料なので往復すると最低でも2個となりますが
欲をかいて白を、緑をよこせと5個ぐらい食べたら昼食が入りませんでした。
 
 
 
 
 
 
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