😅ゴローの人生楽しんだ方がいいね!

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▶中山道茂田井宿



ジョギングも順調に推移、当初の目的でもあったメタボ検診も10月6日に決定。今までの体重変化と下っ腹の出具合を加味するとクリアの兆し大いにありと宣言するに至りましたが…


前振りが長くなりましたが、中山道の旅も雨天以外は、順調に距離数を延ばし、前回の信濃国小田井宿からここ「茂田井宿」へとやって参りました。

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本来なら小田井(二十一宿)→岩村田(二十二宿)→塩名田(二十三宿)→八幡(二十四宿)→望月(二十五宿)→芦田(二十六宿)の順番ですが、望月と芦田の中間に茂田井宿はあります。ところが中山道の中には正式な宿として記録されてません、こうなると不思議ですね、差し詰め幻の宿(狸の宿)との表現がいいのかも知れませんが、これには訳があるようですよ。


《宿場ドリル》:間(あい)の宿
宿場と宿場の距離が長い場合や難所などがある場合などに休憩用として作られました。ただし無認可(幕府)のために旅籠などはありませんでした。東海道甲州街道にも同様に数箇所ですが存在します。寛保二年の大洪水で望月宿が大きな被害を受けたため、茂田井を望月宿の加宿にしようと江戸幕府に願い出たが却下された経緯もあります。

《宿場とは・・》
通信や荷物の輸送および旅行者の休憩・宿泊する場所を提供することを主な任務としていました。
このうち通信や荷物の輸送を担当したのが「問屋」で、休憩や宿泊の担当が本陣・脇本陣・旅籠などでした。中でも荷物輸送を円滑に行うため、人足と馬を常時用意しておくこととされており、中山道では、人足50人、馬50頭を常備していて、宿から宿へと荷物は受け継がれていくのでした。
荷物が多くて常備の人馬だけで不足するときは、近隣の村から馬と百姓が借り出され、これを助郷といいました。水戸黄門一行がただ泊まるだけのところではなかったんですね!



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                       中山道六十九次 望月宿  歌川広重 
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                       中山道六十九次 芦田宿  歌川広重


間の宿:茂田井は江戸より二十五宿目の望月と次の宿芦田の中間点にあります。望月と芦田の距離が1里八町(約4.8km)ですから2.4kmぐらいのところにあったのですね。けど実際に歩いてみると距離があるわけでもなく、また難所でもありません。大名行列などが通る際に前後の宿で捌ききれないときなどにも利用されたようです。もちろん和宮も含めて・・・

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国道から外れ、狭い旧道を降りていくとそれは突然現れます。ちょうど宿自体が谷になっており京方面へは下ってやがては登りになります。
                        
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代表的な造り酒屋が二件あり武重本家酒造(慶応元年創業)、大澤酒造(元禄二年創業)とも白壁がまばゆいばかりか、当時の面影を色濃く残しています。人気がないせいもあるのでしょうが、それにしても静かです。側溝を流れる水の音だけが響いており子供たちの声が耳障りなほどでした。 

なお、この茂田井ではかの有名な御仁が過去にお世話になっています。詩人「若山牧水」。 故郷の尾鈴山の麓に若かりし頃、実家を訪ねた記憶がありますが、酒と旅を愛した彼はよくこの地を訪れており、武重本家酒造の正面に「若山牧水歌碑」が建てられています。

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例えば「しらたまの 歯にしみとおる秋の夜の 酒はしずかに飲むべかりけり」 
彼は武重酒造の御園竹のファンだったようです。ボクは焼酎のほうがいいですけど←個人的にはこちらの詩も大好きです。
「幾山河(いくやまかは)こえさりゆかば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」 
難しいことはよく分かりませんが聞いていて心地よい感じがします。
また大澤酒造では資料館がありますので見学も可能です、時間があれば! 

《武重追記》
酒造の裏手では映画「たそがれ清兵衛」の撮影も行われました、また内部は江戸時代の建造物も残っており国の登録有形文化財に指定されています。
                       
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なお、間の宿(本宿ではない)だけあって道幅がかなり狭いので注意が必要です。また路肩にはフタ無し用水路(深い)があるので歩行の際にも注意。いずれにせよ出かけられる場合には、さほど大きな宿ではないため宿の外れにでも車を止めてゆっくりと散策された方が懸命です。