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日々の生活を中心に、たまに自然を愛でながらのキャンプライフ

▶中山道 姫の宿

 

このシリーズは
日々のジョギングの距離数を昔旅したことのある中山道に照らし合わせ
日本橋から京都までを実際に走ったかのように報告するもの
 
途中の立ち寄った宿場では
詳細なデータと歴史上のエピソード
そして実際の旅の話などもごちゃ混ぜですが紹介したいと思ってます。


7月半ばから始めたジョギングは
8月26日までの実走距離を集計してみると160km
 
これを中山道日本橋をスタートとして当てはめてみると
長野県「小田井宿」まで到達していることが判明しました。
 


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途中、旅の難所といわれる「碓氷峠」は既に越えておりました。
おもえばジョギングコースにあたる団地の登り坂やゴルフ場脇の急勾配が
それに該当
 
あの苦しみの一歩一歩が、時には犬に吼えられトイレも我慢
膝の痛みや空腹と戦った日々が走馬灯のように・・・
しかしゴールはまだまだ先でこれは完走のコメントではありません


 
日本橋から二十一番目(中山道六十九次)の宿「小田井おたい」は
別名「姫の宿」とも言われてますように、第14代将軍徳川家茂にご降嫁のため
和宮が休憩したところでも有名です。
大河ドラマ篤姫では掘北真希さんが演じておりました。

一歩手前の沓掛宿が当時の繁華街(博打や遊郭など)だったためと
旅籠が五戸だけの小宿の影響もあり、大名夫人や姫君などが利用して
前述の呼び名となったともいわれてます。
 
また当宿には和宮より拝領の人形が残されており
それにちなんで毎年8月16日に小田井宿祭りがおこなわれています。
:宿入り口の看板より拝借

 

宿人は、男159人 女160人とあり合計319人、
当時の宿場が200人から3,000人規模でしたから小さめの部類に
入ると思います。
 
ついでですが中山道で人も建物も一番多かったのが現埼玉県の本庄宿で
4,554人になります。
これは利根川水運の集積地でもあり
その経済効果がもたらしたものでもありました。
 

 

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ほぼ当時のままに町並みは現存しており
唯一違うところは当時町の中央を流れていた川(用水路)を
昭和になり道路の端に移した程度です。
 

 

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宿場の規模としては小さい方ですが
 
その謂れや現存する建物などからは当時の様子が伺いしれます。
マニアとしては納得のいくものです。
 

 

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ここから少しだけ日本橋方面へ戻ると「分去れ」の碑があるのでこれは
ぜひとも紹介せねばなりません。

 

左(国道をまたいで)が京都へ向かう中山道
右が越後へ通じる北国街道の分岐点です

旅人同士が、ここで別れを惜しみ
涙とともに袂[たもと]を分けて旅を続けたといわれるのが
名の由来だそうです。
 
道標のそばには、石の常夜燈などが、当時のままに立っており石碑には
「さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを追分の宿」の
有名な歌が刻まれています。
 
これは、江戸から来た場合
右へ行けば月の名所更科から善光寺を越えて越後路へ。
左に進めば、木曽路から東海道を通り
桜の名所吉野へと道が続いていることを示しているのです。

 

※この一角にお賽銭箱があるのですが
当時底に穴が空いておりそれを見た子供たちが大笑いしておりました。

 

※実際の旧道を探索するとなるとかなりの時間と体力+精神力を必要とします。
分去れから小田井に向かうと途中の御代田駅で突然
線路にぶつかり中山道が忽然と姿を消します。
色々と探した挙句に道は線路の下の地下通路となっていることが
判明したのでした。

 

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それにしても女性に好まれた中山道とは何とも羨ましい限りですが
その理由にはまず、将軍家や有力大名に嫁いだ姫の通行が多かったことが
あげられます。個人的にも中山道の方が好きです。

 

九代将軍家重に嫁いだ比宮、五十宮(十代家治)、楽宮(十二代家慶)
登美宮(水戸徳川斉昭)など。そして幕末、十四代将軍家茂に降嫁した
和宮の総勢八万人といわれる行列も中山道を通りました。

 

有名な東海道と比べると約40kmも長く
しかも碓氷峠(1188m)や五街道の最高地点である
和田峠(1600m)などの難所があり、
木曽路などの山道が続く中山道なのになぜか姫だけではなく
女性の旅人にも好まれました。

 

理由としては縁起の悪いものもあるのですが
婚礼に縁起のよい地名が多いからともいわれてます。

ほんとの話は渡船・架橋が禁じられた大井川
日本三急流のひとつ富士川天竜川などや、海も渡る東海道を避け
塩名田宿千曲川を渡るだけであった中山道を選んだということでしょうか。
 

 

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 写真は中山道塩名田宿千曲川に架かる舟橋

 

女性が、川越し人足に担がれての川越えを嫌った理由は
容易に想像がつきます
(身分の高い者は輿で渡れますが、普通の人は人足の肩に跨る)

ここから二つ目の宿、塩名田宿には千曲川に九艘の舟を浮かべ
その上に板を敷いて人馬を渡した舟つなぎ石が今も河原に残っています。

 

川の氾濫による川留めが少ないだけに
旅の計画を順調にこなすこともできました。
 
また、参勤交代の大名行列東海道の四分の一程度の通行量であったため
人馬の往来が少なかったことも大いに貢献した理由としてあげられます。

 

さて次の宿はどこにしようか?迷いますが
160kmがここの宿場に合っているかは確信は持てません。
 
それは途中、寄り道や回り道をしていますので
ずれてくるのですが最後には帳尻を合わせますので。
 
 
 
 
 
 
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