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▶最後通牒ハルノート

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今回は、日米開戦を決定づけた米国務長官
コーデル・ハルを調べてみます。(写真上)

 

日本はアメリカとの戦争を決めていたのですが、
一方で和平への道も模索し交渉を開始していました。

 

政府は野村吉三郎海軍大将(予備役)を駐米大使に任命し交渉役に
相手はもちろん国務長官コーデル・ハル
最後の会談に向かう写真左:来栖大使、右:野村大使 中央:ハル

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日本の要求はアメリカとの正常な貿易の復活、
しかし日本の中国攻撃に対して中国を援助
アメリカは、中国での権益を確保するため、
 
以前から日本と紛争状態にあった中国の蒋介石政権に多大な軍事援助を
送っていた)していたアメリカは日米通商航海条約を破棄して
経済制裁を日本に加えていました。

 

日米の貿易がここで途絶えたわけではありませんが
日本の軍需産業に支障が出るような物だけ指定したり、
或いは量を制限していました。

 

しかし、その交渉中に日本がフランス領サイゴンに陸軍部隊を進めた結果
アメリカは日本へ石油の輸出を禁止してしまいました。

 

このときすでにドイツ、イタリアと軍事同盟を結んでいた日本に対し、
アメリカは譲歩する気など毛頭ありませんでした。
交渉に応じたのは戦争の準備をすための時間が欲しかっただけのです。

 

これを明確に示したのが、1941年11月26日に
ハルから野村に手渡された「ハル・ノート」です。
これはサイゴンからの日本軍の撤退など、
日本が少し譲歩する案に対しての回答内容でした。

 

ハル・ノート」の内容は日本が日露戦争以降に東アジアで築いた
権益と領土、軍事同盟の全てを直ちに放棄することを求めるものでした。

 

日本はこれを最後通牒として捉え開戦を決意に至りました。

 

後の東京裁判で、弁護人ベン・ブルース・ブレイクニーは、
「もし、ハル・ノートのような物を突きつけられたら、
ルクセンブルグのような小国も武器を取り、アメリカと戦っただろう。」
と弁護している。

 

驚くことにアメリカの教科書や歴史書ではハル・ノートは言及されず
単に日本が警告なく攻撃をしかけたと記述されています。
日本の教科書でもハル・ノートに触れていないものもあります。

 

当時のルーズベルト大統領も日本との戦争は止む無しと考えており、
日本に先制攻撃をさせようと画策した感があります。これについては
後ほど報告しますが・・・


ハルに関するその他の記事
・1945年(昭和二十年)にノーベル平和賞を受賞・・国連の父
・ドイツのロケット科学者ヴェルナー・フォン・ブラウンと彼の研究チームをペーパークリップ計画によってアメリカに移送し、アメリカの戦後のロケット計画を組織するのに貢献、同計画は後のNASAの宇宙開発計画の基礎となっています。
 
 
 
 
 
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