😅ゴローの人生楽しんだ方がいいね!

日々の生活を中心に、たまに自然を愛でながらのキャンプライフ

▶大谷石地下採掘場跡

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

 

大東亜戦争も終焉を迎えるころ、
この地区に米軍機の爆撃を避けるために、
疎開して作られた地下航空機工場群があり一つは
中島飛行機(株)宇都宮製作所城山機体工場と、
もう一つは中島飛行機(株)武蔵製作所大谷発動機工場です。

 

宇都宮製作所は1942年(昭和17年)に、
武蔵製作所は1943年(昭和18年)に地下工場の準備に入りましたが、
操業が開始されたのはそれぞれ、
1945年(昭和20年)3月からになりました。

 

この城山及び大谷工場は日本全体で約100あまりあった地下工場の
中で最も優れた設備をもち、最も大規模な地下工場でした。

 

当時の地下工場面積の第1位は、
横須賀海軍航空工廠で広さは約112,500ですが、
第2位の城山工場(約99,900・)と第5位の大谷工場(約86,700・)
を合わせると、広さは最も大きな地下工場となります。
 
また、この両工場には、正規従業員(約8,900人)・
微用工・女子挺身隊員・通年動員による旧制中学3年以上の男女学生・
坑内工事関係者・関係軍人など合計すると約15,000人の人達が、
勤務していたと言われています。

 

城山機体工場では、
陸軍四式戦闘機「疾風」(日本側略称キー84、米軍名フランク)の
機体及び部品が生産されましたが、
大谷資料館地下は、城山機体工場の金入山作業所と呼ばれ、
工作機械・熱処理部門の工場になっていました。
なお、大谷発動機工場では、疾風に装着されたエンジンである、
ハー45/12/18気筒エンジンの部品生産と組立が行われました。

 

戦争中は大谷地下工場に対する空襲は1回もなく
、1945年8月15日ポツダム宣言受諾により太平洋戦争は
終結を迎えました。
それにともない、大谷地下工場も約5か月という短い生産活動の幕を
閉じました。
その後、接収に訪れた米軍関係者も、
終戦までこの地下工場の存在は全く気付かず、
その規模の大きさに驚いたそうです。(以上資料館説明資料よりの抜粋)



まずこの地下に入って驚くことは広さで特に天井高があり

古代の神殿を連想させます。

また内部の温度は低く夏場でも息が白くなるほどで上着を着ないと

長時間の探索は不可能

 

逆に冬場は寒さはあまり感じず、
一年を通して温度が安定しているところから保管庫にもなっているようです。
筆者が訪ねたときはビールのケースが多数置いてありました。

 

寒いのが苦手な方も資料館地上にも当時の採掘の歴史が分かる
展示コーナーがあるのでこちらの見学もお勧めです。

 

また、せっかくここまで来たのですから近くの大谷観音まで足を延ばし
頂上から眺めを堪能してください。

 

 
 
 
.