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@歴史探検倶楽部・・・天保の改革、水野忠邦の墓所を訪ねてみる。

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茨城県結城市それは田んぼのど真ん中にちゃんとありました!


こんにちは。

この水野忠邦天保の改革で有名ですが、実はつい最近までこの場所に本人の墓があるとは正直知りませんでした!道路わきの看板を見て現場へ行った次第なのです。

現在、この場所には水野家初代から忠邦までの11代の墓があり、管理はあまりされてない様子で寂れていました。

他のブログでざっと昔を調べてみると・・・

寛政6年(1794年)6月23日、唐津藩第三代藩主水野忠光の嫡男として生まれる。

唐津藩が長崎警備の任務を負うことから昇格に障害が生じると知るや、家臣の諫言を押しきって文化14年(1817年)、自ら願い出て実封25万3千石の唐津から実封15万3千石の浜松藩に転封される。

その後、将軍・家斉のもとで頭角を現し、文政8年(1825年)に大坂城代、文政9年(1826年)に京都所司代、文政11年(1828年)に西丸老中、天保5年(1834年)に水野忠成が病没したため代わって本丸老中に任ぜられ、天保8年(1837年)に勝手御用掛を兼ねて、天保10年(1839年)に老中首座となる。

その後、忠邦は天保の改革を推し進めることになります。この改革の特徴は人返し令(農村から江戸へ集まった農民を村へ返し米作りをしろ)上知令(江戸や大阪の地を天領とする)でしたが結局は大反対に合い失敗してしまいます。その失敗の裏には将軍のぜいたく禁止や蛮社の獄高野長英渡辺崋山)などがあり老中をクビになるのでした。

その後再び老中に抜擢されますが泣かず飛ばずでわずか1年足らずで辞職となりました。また在職中の罪が暴かれて2万石の領地没収の上謹慎処分にもってます。

家督は長男・忠精が継ぎましたが、まもなく出羽国山形藩に懲罰的転封を命じられ当人は嘉永4年(1851年)2月10日、死去。享年58歳のことでした。

先にも述べたように現在の墓所は荒れ放題?で灯篭なども倒れている箇所や墓前の石扉も外れ放置されているのが見受けられました。菩提寺である万松寺は火事で残ってはいませんが当時はかなり伽藍ではなかったのかと思います。できればこちらも見たかったですけど現在までこの墓だけでも残っているのは良しとしなければいけないでしょう。

なお忠邦の娘は伊東祐相(いとう すけとも)日向飫肥藩十三代当主の正室となっています。同郷のということで宣伝にも聞こえますが日露戦争後のポーツマス会議に飫肥藩出身の小村寿太郎外務大臣として活躍しました。