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@歴史探検倶楽部・・・栃木県①ある晴れた日ついに小山評定の地を探し当てる

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栃木県小山市」で徳川家康が軍義開いた歴史的な場所を調査する


こんにちは。

今日は歴史的にターニングポイントとなった所謂「小山評定」の史跡を調査しに行ったので報告します。

場所的には栃木県小山市の市役所裏付近にありますがほぼ観光地化されてないため探すのは当初困難を極

めました。※場所は諸説ありますが今回はここ市役所裏説ですので・・・

豊臣秀吉が死んだ後に関東で勢力をのばした徳川家康は、密かに天下を治めようと画策し次第に力を蓄え

ていったのであった。

これに対抗する石田三成豊臣秀頼を前面に出して打倒家康の計画を進めていたのである。

家康は会津に移った上杉景勝を打つため1600年(慶長5)6月に5万5千の兵を動員して伏見城を出

発し会津征伐へ向かった。同7月24日には小山に到着し源頼朝が奥州に出陣したときに軍をおいた例に

従い本陣をおいた。しかし家康のもとに石田三成が兵を挙げたとの知らせが入ったことで話は急展開、2

5日に小山の本陣において小山評定を開き今後の対応について話し合った。この軍議は、本多忠勝・井伊

直政ら譜代の家臣のほ、福島正則山内一豊ら秀吉の恩顧の外様大名も参加して行われ会津征伐を中止し

石田三成征伐のため大坂に向かうことを決めたのである。まさにこれは徳川家康の運命を決める重要な

会議となったのである。

その小山評定が開かれた場所はというと①JR小山駅近くの結城街道沿い説 ②市役所付近説 ③小山城

址説などが囁かれているが小山で開かれた軍議が歴史的に重要な意味を持ちその後の歴史を変えたことに

は間違いないことは誰もが認めることです。

市役所裏にあったとされる小山御殿跡地は当時の面影は全く無くうっそうとした木々の間に灯篭が二基わ

ずかに佇んでおりました。柵で区切られた向こう側に空堀らしき物がありましたが特に案内板も無いため

想像の域をでません。遠く思川方面に目をやると対岸には白鵬大学の校舎が見て取れます。

もうすぐ約四百年前と同じ7月を迎えますが当時の武将達はどちら側に付くかで相当気を揉んだのではな

いでしょうか?自分ならどうしたのかなどと問い詰めても答えはでません、できればタイムスリップして

その瞬間に立ち会えればなどと勝手に想像するのでした。